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サザンから [雑事]

サザンの新曲を聞いた。
「愛はスローにちょっとずつ」だ。



まずタイトルを見て、恋愛の歌だと思った。
前向きで、これから仲良くなっていく歌なのだろうと予想していた。
だが、実際に聞いてみると違う。
一人の男性が女性にふられた失恋曲だ。
ドラマで使われる曲と知り、諦めを付けた。

小学校の高学年のころ、最初にサザンオールスターズを聞いた。デビューしたてで、「恋愛」がまだ新鮮だったころに、直接的な表現が刺激的だった。
そして、大学に入る頃にはKAMAKURAをカーステレオで聴いていた。いつも未来を予感させる感性が魅力だ。

もう中年も後半に入り、次の生き方を考える時期だ。
そんな時期の恋愛観て、どんなものかというのが今回の関心だった。

結局は振られた男の歌だった。
中年ともなると、相手のいる男女は、未来へ向けての絆を深めることに関心があるだろう。
相手のいない人は、まだ見ぬ愛情をこれから育くむ悠長さには欠けるだろう。
今は単なる失恋なんて、どこにも引っかからないという、感想だけが残った。

単なる失恋?
失恋の歌は多いが、その一つなのかと思うと、更に虚しい。
失恋の歌は、誤った恋愛観を助長する。
失恋して、次の人を見つけよう、見つかるから、今は区切りをつける時で、悲しみに値すると歌う。
しかし、そんな幻想は、当然、起きるはずはない。
なので、再び、別の人とも失恋関係を構築する羽目になる。
本当の愛は転がっているものを拾うようなものではない。捨てたり、忘れたりできない。寧ろ、それが「本当」の愛情なら、その気持ちはそのまま尊重すべきだと思う。

「この腕を枕に眠る君はもういない」筈はない。その君が生きていて、本当に愛があるなら、いま「いない」という事実が現実だとしても、「もういない」という、あたかも二度と会えないかのような断定は誤っている。
「いない」のは、「君」が去ったからではなく、腕枕をした人の愛情がないからだ。
もし、愛情があるなら、腕枕以上の愛情だって、今からでも、来年からでも、いつからでも注げるだろう。
時間以外の制約も理由にはならない。愛していると言うなら、その言葉を守れば良い。でなければ、いわゆる口だけのきれいごとだ。腕枕をする関係は、人生の目的ではない。日常生活の一部の筈だが、詩にすることによって、恋愛のシンボルかのように描かれる。

「もう愛なんて要らないさ、ひとりで生きるんだ」などと言えるのは、自分がカッコつける方が、相手を愛し続けることよりも大切な証拠だと思う。
そんな人に偽りの愛をなすり付けられるくらいなら、「もういない」と断定させた「君」も、本望だろうか。いや、歌まで作られて、大いに迷惑してるだろうな。

「さよならも云えず」に至っては、意味不明だ。追いかけて「さよなら」と言えば良い。会ったついでに、さらに愛を深めれば良い。どうせ、相手への愛なんて、そもそもこれっぽっちもないから、会うのが辛くて、会いに行けないに過ぎない。
「さよなら」は再会を祈る挨拶だ。会いたいなら、会って、「さよなら」と言ってくれば良い。
会おうとしないのは、会うほどのこともないという気持ちの表れで、会いたくないのに等しい。つまり「君」を愛してなんかいない。恋愛がそもそも成立していない。
幼稚園の歌で、「友達百人できるかな」というのがあるが、そんなプレッシャーを自分にかける必要はない。友達が、何人いるかの数はFacebookやInstagramの陰謀であって、個人の人生に重要な数ではない。
一人でも、自分の愛を注ぐ価値のある人が見つかるかの方が、重要ではないか。
友達や恋人は単にボタンを押すように作るものではない。
失恋と決めつける前に、本当に恋をしていたのか、愛していたのかを考える事が先決だと思う。

この本人は、結局「君」を愛しているわけではなく、自分の思い通りに相手が動かないのを「君」の責任にしているに過ぎない。

そんな姿勢では、「君」はおろか、誰も愛しているにカウントできない。
生きている中で、愛し合うのは生活の基本だと思う。
恋人や配偶者、家族に限らず、毎日顔を合わせる人、一瞬だけ顔を合わせる人でも、知らないうちに愛情は持って生きていると思う。
でも、失恋の歌の主人公のような人々には、そういうささやかな愛情を実感として感じることよりも、他人の事はどうでも良くて自分の身勝手が強いのだと思う。


映画やテレビのドラマでは、非現実的な殺人が簡単に起こる、空想だから。恋愛も簡単に起こるが、空想だから。こういう歌の失恋も簡単に発生する。空想だから。

サザンを聞いて、現実離れし過ぎてて、なぜシラけたかの理由を考えて、この記事を書いてみた。

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S

音楽は聞く人がどう感じるかだと思います。
私はこの歌は、突然大切な人を失った人が今までのしてきた事を後悔しながら生きている歌だと思いました。それは、私が最近病気をしたからです。その時、生まれて初めて自分はもうすぐ死ぬかと思いました。後悔しない人生とは何か考えました。私が死んだ後この歌を聴いたら、私が大切な人だと思っている人は私の事を思い出すのかかと考えました。でも、人生は少しも思い通りに行きません。それは歳を重ねてきた誰もが抱えてることだと思います。
桑田さんはそんなやりきれないけど、受け入れなきゃいけない気持ちをよく表していると、私は思いました。
そうは思いませんか?
by S (2019-11-04 20:19) 

marumaru218

Sさま コメントありがとうございます。
そして、とても奥が深い解説をありがとうございます。
私のような愚か者には、到底解釈できない歌だったんだとわかりました。
届く人には届いてたんですね。

by marumaru218 (2019-11-05 22:52) 

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