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久々のJourney [音楽]

車を運転していると、ラジオ番組のゲストによる選曲として、JourneyのSeparate Waysを流すと紹介が始まった。

「お、往年のアルバムFrontiersの最初のシングルカット曲か。」と、耳を傾けて聞いていると、選曲理由は「世界で2番目にダサいミュージックビデオだが、歌詞は抜群に良いから」だとゲストが言う。
そのゲストは最初にビデオを見て、「こんなダサいビデオ見たことない。ダサすぎる。」というので、曲が記憶に残り、後から歌詞を知って、「こんなに良い曲だったとは」という経緯で、好きになったと言う。

「どんなビデオだったかは忘れてしまったが、歌詞はそんなに良かったっけ?」
と首を傾げていると、イントロが流れてきた。

何百回と聞き、歌った馴染みの曲だ。歌が始まると、一言一句歌詞、メロディー、間奏、後奏、全てが全身に残っている。
5分程度の曲だが、終わってみると、やはり「そんなに良い歌詞か?」と思う。
司会者が「歌詞がいいって言うけど、この歌詞はフラれた男が、片思いの女性に対する未練の歌ですよ。」とアシスタントに解説する。
まさしく、その通りだと思う。いわゆる負け犬の遠吠え的な歌だ。

この曲も高校の頃、友人と歌詞の解釈をしたのを思い出す。
基本的にこのバンドの歌詞は、あんまり奥が深くない。
一方で演奏や音楽は素晴らしい。おそらく、音楽の部分が先に出来上がり、この激しく感情的な曲調と短調のネガティブな情感を与える詩として、書かれたのではないか。と解釈していた。
詩は大したことないのだが、全米1位に付けたのだから、音楽性が貢献しているのだろうと友人と話していたのを思い出す。
まだレンタルレコードをダビングしてウォークマンで聴いていた時代である。MVを見たのはヒット後のことだ。ビデオがないヒット曲も多かった時代だ。ビデオがあると言うことだけで、友人と驚き、そしてそのチープさについても、分析しあった。「このバンドはMVの仕上がりに固執せず、演奏一辺倒なのだ」という結論で落ち着いたのだった。




タグ:Journey
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Caminito [音楽]

フリオ・イグレシアスJulio IglesiasのアルバムAmericaは1976年に発売された。
Julio Iglesiasは1968年ごろから、スペインで有名になり、1971年には大阪でもリサイタルを開催していたらしい。
しかし、南米での知名度が低かったため、このアルバムを製作するとともに、南米ツアーを実施したようだ。



このアルバムは、南米各国の民謡というか、ソウル・ソングが収録されている。原曲は、各国独特の民謡調のリズムや土着の楽器で演奏されるものだが、このアルバムではJulio Iglesiasの現代的な歌謡曲になっている。
従って、現地では各国のソウルを汚す者として、必ずしも評判は良くなかったようだ。
しかし、世界的な歌手Julio Iglesiasのアルバムに収められたことにより、南米の各国の音楽、メロディーを世界に馴染ませた功績は大きかったと思う。

アルゼンチン、メキシコ、ベネズエラなどとこのアルバムの各曲は、各国に由来がある。

ここでは、アルゼンチンのCaminitoカミニートを訳してみたいと思う。

Caminitoは、道、路を意味するCaminoが変形した言葉だ。一般的に語尾を-itoにすると、強調した表現になる。
Despasioは「ゆっくり」という意味だが、Despasitoに変形すると「とてもゆっくり」となる。
名詞の語尾を変形すると、「小さな」という意味が加わる。
つまり、Perroは「犬」だが、Perritoは「小さな犬」、転じて「ワンちゃん」のような意味合いになる。
Caminitoはブエノスアイレスのボカにあるような細い路地とも言えるし、アルゼンチンの大平原Pampaにある細いあぜ道とも考えられると思う。
日本語でいう路地はCalleというが、この歌ではCalleが出てこないので、立体的ではなく平面的な道を歌っている印象を受ける。
というわけで、Caminitoの訳には小径を当てることにする。


Caminito que el tiempo ha borrado
Que juntos un día nos viste pasar
He venido por última vez
He venido a contarte mi mal
小径よ、あの日僕と彼女が一緒にここを歩いていたのを見てただろう
でも、時がすべてを消し去り今その姿はない
もうこれが最後のつもりで来たよ。
自分の悪さを伝えに来たよ。


Caminito que entonces estabas
Bordeado de trébol y juncos en flor
Una sombra ya pronto serás
Una sombra lo mismo que yo
小径よ、その頃君はクローバーとイグサの花で縁取られていたね。
でもそれも直ぐに(思い出の)影になるだろう。
早くも影があったよ。
僕と同じ影があった。


Desde que se fue
Triste vivo yo
Caminito amigo
Yo también me voy
彼女が去ってから、悲しみの人生だ。
我が友、小径よ
僕も去るよ。


Desde que se fue
Nunca más volvió
Seguiré sus pasos
Caminito, adiós
彼女は去ってから二度と戻って来ることはなかったよ。
僕は彼女の跡を追うよ。
小径よ、永遠にさようなら。
彼女は去ってから、
僕は進むよ。
小径よさようなら。


Caminito que todas las tardes
Feliz recorría cantando mi amor
No le digas si vuelve a pasar
Que mi llanto tu suelo regó
毎日夕方になると、僕の愛の予感で幸せに包まれた小径よ。
再び同じ気持ちで通るかなんて、聞かないでほしい。
そして、再び僕の涙で大地を濡らすかなんて。


Caminito cubierto de cardos
La mano del tiempo tu huella borró
Yo a tu lado quisiera caer
Y que el tiempo nos mate a los dos
アザミで覆われた小径よ。時間の手で君に刻まれた足跡も消えてしまった。
僕は君のそばに落ちていきたい。
そして時間が僕たち二人を殺してしまえばいいのに。


Desde que se fue
Triste vivo yo
Caminito amigo
Yo también me voy
彼女が去ってから、僕の人生は悲しくなってしまった。
小径よ、君が友達だ。
僕も行くよ。


Desde que se fue
Nunca más volvió
Seguiré sus pasos
Caminito, adiós
彼女が去ってから、戻ってはこなかった。
僕は進むよ。
小径よさようなら。

タグ:Julio_Iglesias
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スペイン語の歌詞 [音楽]

同じ曲でも英語で聞く歌詞と、スペイン語で聞く歌詞は印象が違う。
作家の個性の違いかもしれないが。
よく考えると洋楽と呼ばれるのは、英語の音楽がほとんどなので、入ってくるのは英語文化圏の考え方なのだと、気づかされる。
この曲を聴いて、改めて実感する。



英語名がA Whole New Worldに対し、スペイン語名はUn Mundo Ideal。これは直訳ではないし、意訳とも言いにくい。Un Mundo(ウンムンド) は英語のA Worldに当たる。Idealはスペイン語では「イデアル」と読み、日本語でいうと意味は「理想」に当たると思う。
いつ、誰と話したのかは、はっきりしないが、スペイン語のidealと英語のideal(アイディール)は意味が異なると教えてくれたメキシコ人だか、コロンビア人がいた。
英語のidealも「理想」と訳すが、英語の場合は、「架空」「想像」の意味が強い。スペイン語のidealは、日本語の「理想」の意味に近く、日本語よりもポジティブな意味合いがある。
英語のidealは数学の「仮定」のように、「この世の中にはない想像上の世界」のニュアンスが強く、ニュートラルの色が強い。An ideal worldだと、単に「空想の世界」であり、天国のような理想郷も地獄のような修羅場も空想の世界、ideal worldの範疇になる。しかし、スペイン語のidealの持つ理想のニュアンスは理想郷のような理想で、天国のことを指す。
この、世界観の差は、単にidealという単語だけでなく、スペイン語の文化圏に共通していると思う。
英語的考え方だと、中立の位置を定め、それに対する位置関係があり、中立位置を意識した考え方をする。言葉に客観性がある。
スペイン語は主観的だ。動詞の活用で人称も表現するため、文章の中での動詞の主格がどこにあるのかが組み込まれている上、更に名刺や代名詞を用いた表現ができるので、短い文章でも日本語にすると、回りくどく複雑な事を述べることができる。
そうした言葉を使うということは、その複雑な表現は話者の主観で表現されているのであり、他の人が同じ事を表現することが許容されているということだと思う。
そして、そのようなバックグラウンドがあるから、話者の言葉は話者の主観的表現を表している。

例えば英語的考えの場合、不明確だったり、不確定なことは、良い方に転ぶかもしれないし、悪い方に転ぶかもしれない。悪い事が起きてもがっかりしないように、悪いこともある程度想定して生活する。すると、悪いことを測りながら考えるようになる。こんな悪いことと、こっちの悪いこととどっちが悪いか、マシな方を選ぼう。選ばなかった方が最悪で、選んだ方が最善ということになる。
こうして、物事の悪いことを想定して良いことを選ぼうとすると、悪いことの品定めをしなければならないので、いつでも悪いことを意識しなければいけない。ストイックだ。アメリカ大統領選の論戦も見苦しいほど、相手の些細な弱点を見つけて糾弾する。これは、選挙民が悪いことを排除することに執着している現れだと思う。

スペイン語的な考え方だと、そもそも悪い事は自分で想定できるものではない。自分で悪い事を定義することはできない。悪いことというのは、事例を挙げることはできても、それはあくまでも事例であり実際に起きるか分からない。また、身の上に起きた現実が良いか悪いかは、起きてみないと判断はできない。従って、岐路に立った時には、好きなものを選ぶ。悪いことを理由に物事を決めることはできない。悪いことの定義がないので。
自分の人生は、自分の幸せなのだから、好きなことを選ぶ。とっても悪いことも、ちょっと悪いことも、全部悪いこと、言い換えると自分が幸せと思う以外のものだ。悪いことに対する感性は鈍いかもしれないが、逆に良いことへの感性は鋭い。ちょっと良いことと、とても良いことの目利きは効く。

日本人は、両方の側面を持っていると思う。というより、外面はストイックで、内面は甘い。悪いことへの感性は研がれているが、実際にはストイックにはならない。良いことへの執着がないわけではないが、良いことへの執着は悪いような風潮があって、感性が研がれていない。


情感的な表現はスペイン語の方が心に刺さる気がする。
歌に戻ると、例えば、英語だと、A hundred thousand things to see, I’m like a shooting star I’ve come so far, I can’t go back to where I used to be.という部分がある。
「(新しい世界には)幾百千もの見る事がある、私は遠くまで来た流れ星のようだ。かつていた場所へは戻れない」
スペイン語版だと、Allí mil cosas voy a ver, Soy como azul estrella... que se va Y nunca será igual ya otra vezとなっている。
「私はそこ(理想の世界)で幾千もの事を見よう。私は進み続ける星のようで、二度と今と同じことの繰り返しはない」
それぞれの作詞者の感性の差かもしれないが。
たくさんのものが見たいという本人の胸中の躍動感が英語の歌詞では表現できていないし、後半の過去との決別についても話者目線が前提の未来形表現なので、単なる予想ではなく、意志が表現されている。英語の後半の文章だと、自分が流れ星だから戻れないという因果と状況を述べているだけとも言える。
自分の意思が表現できているから、刺さってきたのかな。
だし、アラジンから「新しい世界」のつながりが分かりにくかったが、「(自己中の)理想の世界」はつながりやすい。

私は言語学者とかではないので、以上は個人的な見解ですが。。。

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